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歴史形成原動力への一瞬の努力

イギリスにて

補正版  2000年6月23日 (初版19991030)

宇田 信一郎


1」イントロダクション

「2」プロジェクト80の時代

3」講演と国際会議を通じて

4」昭和36年の航海

5」「歴史形成原動力への一瞬の努力」

「6」――「LSEフォーラムの事、EUの事、日本の将来の事」

−グローバリゼーションを踏まえて−

 

「1」イントロダクション

 

 私は、199711月に、英国政府のシンクタンクで「日本の経済はどこへ行くのか」という主題でプレゼンテーションを求められ、帰国後、首相にも日本訳を提出した。 会議は、同年1117日からの一週間、丁度、北海道拓殖銀行と山一証券が崩壊した間の一週間に、「日本の国際的役割」というテーマで全世界から五十名を集め、朝9時から夜10時まで、イギリス南部の田園都市ウィルトンパークの15世紀のマナーハウスで、クローズドコンファレンスにより、日本の政治、経済、外交をふくめて多面的なテーマで行われた。日本の大使や元外相が外交問題などを議論しているときはよかったが、私のテーマは、当時の難題であり、私には、日本のイギリス大使館を通じて、6ヶ月前の5月に依頼があった。

 この会議の原稿は、英文を作ったが、首相に提出するため、英文から日本文に訳しなおしたものを提出した。丁度アジアの経済危機が韓国に及ぶ直前で、橋本首相時代の1997年末からの政策補強、小渕政権の発足以来の政策と参照して、「日本の経済はどこへ行くのか」をみてもらえば、その中身を興味をもってみてもらえると思う。またこの論文の中で最後に触れた21世紀の日本の国のありかたについては、1998年の初頭(たしか14日と記憶する)、現在企画庁長官をしている堺屋太一氏が当時受け持っていたNHKの経済番組で竹中慶大教授と取り上げていたのであるいは、ご覧になった方もいるかもしれない。

 また、本年(1999年)6月サミットに先立ち、やはり英国でASEM(アジアとヨーロッパの定期協議 会議)関係の会議で[Managing an Integrated Economy: What Role can Asia and Europe Play?]という題で提言を求められ、アジアの経済危機の本質と国際公的機関の誤った処方箋ならびに、ヘゲモン国アメリカがメキシコ危機に比べて、日本の−後に宮沢構想といわれるものに発展した提案−をうけいれないなど、危機がロシア、ブラジルを廻って自分の国のノーベル経済学者2名を有する世界のトップのヘッジファンドに及ぶまで、対応が遅れ、その間に、ヘッジファンドが莫大な利益を得たのみならず、アメリカなどの企業の中には、価値の下がったアジア企業への支配力などを強めていったことなどにも、言及する本格的な提言をするためのペーパーを用意した。

 これらの問題を含めて2000年の428日「ワールド・フォーラム」からの要請により、新日鉄の代々木倶楽部で「21世紀の世界と日本とグローバリゼーション」(仮題)と題して講演したが、ここでは、どのような背景のもとに、私が現在の活動をしているのかを、過去に遡り、中心となっている父への追憶記事「歴史形成原動力への一瞬の努力」を中に挟んでエッセイ風に−しかしいくつかの将来の日本の問題を含んだ内容を記す事にする。

 

「「2」「プロジェクト80の時代」

 

 マックス・ウェーバーは、「社会科学および社会政策の認識のための客観性」に代表される重厚な論文以外に、「職業としての政治」、「職業としての学問」などの小粒ではあるが、中身の濃厚な論文を書いている。その中で使われている「職業」というドイツ語は、ベルーフェン、ベルーフから由来し「天から召されたもの」というほどの意味であり、個人として天意とも言えるべき職業を自分の一生の中に、見いだした人は、たとえ苦難を伴っても、幸福であると言わねばならない。

 私は、父をなくした1989年からおよそ10年目に、相続した土地がやっと税額の3分の1で売れたほど資産デフレの影響を被ったため、経済的には、大変な目にあった。しかし、私は、個人として自分の出来る事の中で社会の一員として貢献できるかを求めてきた。そしてその意味でウェーバーのいう天意にそったベルーフを見いだしたといえると思っている。それは、私の場合、世界と日本のために如何に自分の解剖したその時その時の政治経済情勢の判断に基づく信条を主張するかということである。

 私は、NHK時代からも父の政策提言の雑誌「新政研究」に数十年にわたり論文を発表してきた。この雑誌は、一般向けには、市販されていなかったが、敗戦直後から日本の復興と発展をはかるために時代時代のリーダー達に配布されていたもので、特に1953年から1955年の保守合同運動と1960年の日米安保条約改正には、重要な役割を果たした(5参照)。

 父が亡くなった時、東京大学現代政治研究センターが、内容をコピーするために相当な期間借り出しにきた事がある。私は、父へのはなむけとして父がなくなってから、3年間、この雑誌を引き続き発行した。

 私は、1961年から1963年までイギリスのBBCで日本向けの放送に従事しながら、現在私が日本における開催を委嘱されている「ロンドン大学LSE国際・社会・経済フォーラム」の源であるLSE(政治経済学院)を中心に調査研究を進め、傍ら、日本の新聞社のロンドン代表の仕事を手伝いながら日本の世界における進路を模索した。

 帰国後、NHKで働きながら、1970年代のはじめに将来の日本が直面する可能性のある問題に対処するため学者、官僚、企業の若手からなる「プロジェクト80」を結成し日本がどのような政治経済上の戦略や路線をとるべきかを論じあった。このシンクタンクともいうべき活動は、今からみても相当重要な問題を論議した。

 日本の経済成長のあり方、日本の国際収支の将来予測される黒字が(60年代までは、40億ドルが、残高の限界であった。それが5年以内に120億ドルの手持ちになるとの予測を前提に討論を進めたが、実際には2年間で168億ドルに達した)がどのような摩擦を生むか、日本の国際協力やODAのあり方や南北問題についての日本の戦略、日本のテクノロジーが何処まで発展出来るか、というような問題からはじまって、間接税のあり方のようにその後20年たってから実現したもの迄ある。エネルギー問題でも、たとえば、現在日銀の政策審議委員をつとめているある有力な国際的石油会社の元会長(当時常務)には、石油価格が上がるかどうかをプレゼンテーションしてもらったが、経済的情勢からは、「無い」と主張されたのにたいし、私が石油産出諸国が政治的団結をした場合には危ないと反論したおぼえがある。

 その後間もなくして、第一次石油危機が始まり価格が10倍に達した。堺屋太一氏の「油断」が発表されたりしたのもこの前後である。

 またアジアにおける日本の孤立の危険性について議論を展開していたところ、そのミーティングに参加していた外務省の課長が6ヶ月後当時の田中首相と東南アジアに同行し、インドネシア、タイ、シンガポールなどで自動車の焼き討ちや反日デモに遭遇した。パキスタンの故ブツト大統領が日本をエコノミックアニマルと命名した時代である。

 しかし、プロジェクト80で議論したことの中で議論したことのコアである「日本は、経済的に先進国になる過程で、自由化を進めるべきである、通貨の切り上げを進めるべきである、国際協力を進めるべきである」という3つの課題は概ねその目的を果たした。むしろ行き過ぎは、グローバリゼーションの過程のなかで調整が必要かもしれない。ただし、海外資源の確保には、円の価格上昇が生かされる戦略的政策が必要である。

 

3」講演と国際会議を通じて

 

私は、頻繁に講演を求められる程、有名人ではないが、それでも、日本で2度海外で3度記憶に残る講演提言の発表がある。日本では、多分故古垣鉄郎NHK会長の推薦かと推測しているが福沢諭吉の創立した交社で故高村象平理事長(元慶応義塾塾長)の依頼でした「政治と国際協力」という講演と、故安倍外相のとき世界から代表をあつめて「Telecommunications, Information, Development and Economics」というテーマで開かれた外務省の国際会議で日本側の2名のゲストスピーカーとして講演した時である。私は、放送関係の国際協力の責任の一人であったのでそういうことになったのである。

 この外務省の講演の時、会議の1日目と2日目の間を利用して、代表たち50名ほどをNHKのハイビジョンの見学に招待した。コンピューターや通信を始めとして、標準化の問題は、金融のシステムを含めてグローバリゼーションのプロセスで死活的な問題であることは、言うまでもない。NHKのハイビジョンは、世界の3つのカラー放送システムNTSCPALSECAMの統一にもっとも合理的なシステムである。この放送システムの問題は、政治システムや権力構造に大きく影響する問題であって、1989年のベルリンの壁の崩壊やソビエトの体制変化、反革命が不成功に終わったこと、私が1977年に使節としてビルマにいきその後、日本の18億円のテレビ局建設援助にいたったことなどの基礎に横たわる問題であるが、ここでは、詳細を省く。ただこの時のNHKのハイビジョン見学では、ヨーロッパがハイビジョンによる世界市場制覇をおそれて、反対を表明した。アメリカの代表であった国務省の大使は、熱心に日本の主張を擁護しITUなどへも働きかけたし、シュルツ国務長官時代に私も出席したワシントンの世界的な情報、通信関係の会議までは、そうであった。しかし1992年に私が、国務省の招待でアメリカのシンクタンクを歴訪した時に、ランド・コーポレーションの副社長が私に密かに見せてくれたアメリカの放送関係の戦略的検討リポートでは、明らかに方向転換していた。この背景は、日米間の経済摩擦激化にともなうアメリカ独自のシステムの方向へのシフトである。まさに、私どもが、さきに「プロジェクト80」で70年代初めに予測した繊維、鉄鋼、自動車の摩擦の延長である。

さて、海外の三つのプレゼンテーションのうち、二つは、冒頭に述べた英国政府のシンクタンクの講演であるが、もうひとつは、1994年にフランスのレイモン・バール元首相等から招かれたリヨンでの21世紀の社会のありかたについての会議である。

(写真:1 レイモン・バール元仏首相と−経済学者としても高名な人格者)

 

 私は、このとき日本が、環境問題や成長の制約要因の増加の中で目指す21世紀の社会の目標の一つは知識社会であるとのべ、隣に座っていたイギリスの有力紙The Independent社社長から明確な論旨で「何故そうならなければならないかを説明した」と言われたのを覚えている。

 しかし、私がここで問題にしたいのは、情報化社会の進展について日本が遅れをとったことである。特に金融システム面と企業の経営情報と経営判断のためのコンピューターの利用とそのためのデータベース整備がアメリカ、イギリスに比べ遅れている。

 私はかつて1986年に発表した「日本経済の峠の時代」という論文で、1871年のイギリスの国際投資が世界の七割と考えられた事、その年に経常収支の国民所得に占める黒字の割合が5.7%に達したこと、1910年頃のアメリカが、同じく4%内外であったこと、また1960年代のアメリカがやはり4%台で、世界投資の六割を占めたこと、にも関わらず、経済的には、パックスブリタニカもパックスアメリカーナもピークに達したこと、但し抜本的な技術革新に成功したときは引き続きヘゲモンの位置を保ちうるとのべ、当時経常収支の黒字幅がGNP4.7%へ達した日本への箴言を述べた。しかし、ご承知のように、アメリカは、情報ハイウェーをはじめ、コンピューターソフトの国、企業、防衛、個人、金融システムでの利用をはじめ、データベースでの利用を含めて圧倒的な優位にたち、冷戦構造の終結ともあいまってヘゲモンの地位を強化している。

 イギリスの場合も、一時は株式の時価総額が、大阪証券市場につぐ、4位となったが、ウィンブルドン型とか揶揄されながらも、今では、為替面を含めて世界一ともいえる金融市場となり、シティは、イギリスのほかの地域や産業とは別な世界のように当のイギリス人もみなしている人が出てきた(しかし新しく出来たユーロ市場ではまた、急激にボンド市場が成長しつつあるのだが、ここではこれ以上触れない)。

 情報革命とグローバリゼーションにともない、教育も変わってくる。

 私自身もこのところ1年間、折にふれて、LSEのスタッフのためのいろいろなコンピューター利用のための講習に参加しているが、およそ40年前の日本での大学教育と比べるとこの面での教育の変革が一番はげしい。ブレア首相も、最近子供の段階からコンピューター教育が出来るよう月5ポンドで機器を貸与し、貧困家庭だからといってアクセスが出来ないようなことがないようにする政策を発表した。

 実際、英国も知識社会型の発展を将来の目標にしていることは、だんだん具体的になってきていて、卑近な例では、ゴードンブラウン蔵相が熱心にMITに接触し、最近ケンブリッジ大学との連携ということになった。アメリカのMITに何らかの関係を持つ会社は、世界の先端を行く技術を擁し、110万人の雇用をもち、世界的規模での売上は2320億ドルに達し、国レベルでいうと24番目の規模に匹敵するといわれる(1997年調査)。この大学を何とかイギリスに誘致しイギリス経済革新のリソースにしようという遠大な計画であったが、当のMITがイギリスのシリコンバレーといわれるケンブリッジとの提携を希望したのである。

 またそのケンブリッジは、アメリカのマイクロソフトが密かに接近し、調査組織を設けようとしている。中国の江択民も公式訪問中ケンブリッジを訪れた。ついでながら、中国は今後100位の先端技術の開発ストラテジーを時間系列で計画していることは10年位前に、みたことがある。それから、規制緩和と市場経済の進展に向かって行くことは、基本であるが、米英ともに、首脳の各国訪問の時も含めて、経済戦略の実現には、日本株式会社などと非難する以上の密接な政府・民間の協力体制をとっていることには、日本も参考にしなければならない。本年イギリスでは、民間と外務・通産の関係部局が合同して輸出省(正確には準省組織)ともいうべきものが誕生している。

 

4」昭和36年の航海

 

1961年(昭和36年)の429日、私は、日本を出発して、1600年(関が原の年)創立の英国のP&Oラインの客船Orcades48千トン)に乗船し、香港、マニラ、シンガポール、コロンボ、ボンベイ、アデン、スエズ、ポートサイド、ナポリ、ジブラルタル経由でロンドンに向かった。

 神戸まで見送りにきていた父母が段々と地・水平線の彼方に見えなくなっていく別れの風景を見ていたある米国の老婦人が、「あなたへの見送りのシーンは、印象深かった。何か私に出来ることはないか」と尋ねた。

 当時、日本開発銀行、八幡製鉄につぐ、資本金を有するある海運会社に勤めていたが、まだ外国を訪問したことはなく、英語に堪能というわけではなかった。しかし、BBC放送で働きながら、ロンドン大学で自分の関心ある主題について、調査研究をしたい希望をもっていたので、「英語を教えて頂ければ、有難いのですが」とお願いした。29日間の航海の終わりの時に、私は、日本から英国でお世話になる人々のお礼の品の一つを差し出したが、感銘を受けたのは、この老婦人は、「私は、平和のために役立つことをしたのに過ぎないのです」といって、どうしても受け取ろうとしないことだった。

 船が寄港する度に、訪れる外国は、まことに興味深いものであった。マニラで大統領官邸を、船客のために見せてくれたが、出口で衛兵がチップを要求したのには、驚いた。しかし、街を歩いて、マニラ湾の夕日を見ながら、船へ向かって一人埠頭への道を歩いていると1台のジープに警官たちが乗って近づき、どこへ行くのかと尋ねるので、船をさがしているというと、ジープで船まで、送ってくれたのには、感謝した。

 シンガポールでは、船客の中に数えるほどしかいなかった日本人の一人である私にストレートタイムスの記者がインタビューにやってきて、日本が起こした大東亜戦争の感想を聞かれたので「日本は維新以来、アジアが西欧に支配されることに反対してきたし、やむを得ず起こしたのである」という趣旨のことを述べたところ、翌日の新聞に数段抜きで掲載されてしまった。

 今は、こういう発言をすると日本は袋叩きにあうのだが、日本の一面の立場の真実はここにあったと今でも考えている。当時アジア諸国の指導的なリーダー達の中には、中国で孫文の中道的後継者といわれた汪精衛や、インドでネール以上の指導者といわれたチャンドラボース、タイ、ビルマ、インドネシア、仏領インドシナ半島の独立の志士たちが、日本と運命をともにしたのも事実である。後年1997年に、日本航空がハイジャックされたときに、日本が世話になったバングラデシュ放送局に結果として、20億円の援助をすることになった二人のミッションの一人として、政府の国際協力の仕事でダッカにいったことがある。その後、経済協力案件調査のため、引き続きインドとビルマ、ネパールを訪問した。インドのデリーを訪れたとき、ムガール帝国の古城で薄暮に始まる光と音声でのインド独立の歴史ショーで、ボースの録音されたインド独立を訴える肉声をきいたが、その迫力とインド民衆の熱狂ぶりは、その後のネールを遙に凌ぐものであった。

 ロンドンタイムスは、日本の敗戦後「今度の戦争の原因として日本のファシズムは非難されるべきであるが、この戦争の結果としてアジア・アフリカに独立の嵐が巻き起こるであろう」と社説に書いているが、勝者からみた敗者の一面の真実をはからずも述べたといえないこともない。アジアで民主化が進むことを前提としつつも、一方で、日本がほかのアジア諸国から、戦前からのこの一面での理解が得られた時こそ、アジアにEUのようなものが生まれ得る精神的な基盤が出来るときと愚考するが、来るべき21世紀のグローバリゼーションの時代は、このような国家を背景とした20世紀の国際理解の問題点を素通りするのだろうか。

 

 数十年を経て今反省すると、戦争は、当事者間では、主体的には、正義と正義(もしくは国益と考えているもの相互)の争いであり、大東亜戦争は、日本にとっては、日本の拠って立つべき生存の理由にもとづき行われたものであるが、客観的には、彼我の国民は勿論、戦場の国々(あるいは当時は植民地)の主権を侵害し、その国々・地域の無辜の人々の生命の犠牲を始めとして多大の損害をもたらしたことは事実である。 また、時が経てば、経つほど、時代環境を理解しない人々に世代が移っていくし、それらの国の中には、国の統一を保つための政策手段としても役立つとあって、日本の残虐行為として拡大した内容で、「侵略博物館」を常設しているところも多く、益々、帝国主義的侵略であったと認識されてしまう。

 1999年半ば頃、アフリカ人の弁護士を中心としたネットワークが、奴隷に象徴される西欧列強と、米国の近代における搾取に対して時価700兆ドルに換算される賠償を支払うべきであると要求したと報道された。本音をいうと、この時これで事有るごとにスレトンニングになされる日本に対する戦争残虐行為への言及は、トーンダウンされるかと思ったりしたが、しばらくすると、そのグループから日本もこれらの国と同じように帝国主義であったと表明された。

 日本としては、戦場となった国々に対して、謝罪をしながら、一面では、毅然とした立場であくまでも、相手の理解を得るべく努力をしていかざるを得ない。日本が戦後アジア発展のために一貫して協力してきたこと、今回のアジアの経済危機についても、本当に親身になって実際に苦しい中でも金融支援をほかのどのOECD諸国よりもしていることは、もっと理解されていいことである。ただし、最近の東チモールへの国際的貢献では、他の国の方が目立つことになった。

 ひとつの代替しうる日本の責務として、日本が来るべき世紀に、地球上の世界の平和について、政治、思想、外交、経済協力、安全保障を含めて国際社会の舞台で堅実な分に応じた貢献をしていくならば、自ら道が開ける可能性はある。特に地震、災害、などの地球環境からの被害が発生した国には、自衛隊の派遣を含め、日本が世界のリーダーとなるべき政策を展開すべきである。

 11月の14日、ロンドンのホワイトホールで、恒例の戦没者への追悼式が凡そイギリスの考えられるほとんどの主だった各界各層の代表とコモンウェルスのミッションも参加して行われた。この追悼式典は、市民の自発的な1919年の集まりから始まって、今では、英連邦の犠牲者をも対象にした、国民的行事となっていて、日本の現状とくらべると些かの羨望を禁じえない。コモンウェルスに対する英国の基本的態度は、旧英連邦諸国を訪問する際、よく表明されるエリザベス女王の「Thanks for the Past, Hope for the Future」に象徴される。日本が、アジアの諸国をそれらの諸国で犠牲となった人々への追悼をも含めて、式典を催すことが出来たとしても、このような言葉を語りかける環境にないことは、残念である。

 ―――この航海のあともいろいろな国でいろいろな事を体験した。もともとバイポラリゼーションの冷戦構造の時代に、日本の行くべき道を模索すべく、英国にむかったのだから、3年近くの滞在の後、著した「政治と人間生活の接辺について」(三十数年前の本だが東京大学現代政治研究センターに保存されている)に一端を述べることになった。ここでは、麻布高校時代に経験したある出来事とその後の推移が、以上述べてきた欧州勉学、BBCでの日本向け放送への従事、NHKでの活動、王立国際問題研究所会員や、ロンドン大学のフェローとなったこと、さらに現在(20001)まで7年間委嘱され、25回開催している日本でのロンドン大学LSE国際社会経済フォーラムにつながったか―――その背景を、父の郷里旧薩摩藩のクラブ誌に書いた父への追悼記事「歴史形成原動力への一瞬の努力」をもとに、次に示す。

 

5」「歴史形成原動力への一瞬の努力」

 

『戦前、戦後にわたって分裂していた保守政治家を中心として約120余名の署名を集めて、昭和28年、東京虎ノ門の共済会館で、日本の発展のために、保守は大同団結しなければならない、という会合が開催され、2年後の195年体制成立への道が開かれた。

当時私は、麻布高校の3年生であったが、この会合の推進者兼主催者が亡父であった為、末席で1日を過ごした。ちなみに橋本首相は、麻布高校の1年生か中学の3年生だったと思うが、後に私が直接聞いたところでは、最初から政治家になるつもりではなかったということなので、学生時代は、政治的会合にはあまり出てはいないと憶測する。今は、もうこの会合に出席した人々もあまり存命ではないと思うので、私は、数少ない歴史の証人ということになるかもしれない。

父は、昭和35年の日米安保条約改正の時も改正案阻止のデモ隊に包囲されて、首相官邸で徹夜した7人の議員の1人であった。保守合同後、政治行動を共にした岸さんから、後年「一誠兆人を感じせしむ」為宇田国栄君という書を頂いている。

(写真2安保条約改正の時、デモ隊に囲まれ首相官邸で徹夜する岸首相と父達)

父は、高位高官にはいたらず、すべての面において、第一流というわけではなかったが、人間苦の体験を嘗め、真に時代を推進する役割を担った一人として、子供としてより、一個人として、私の最も尊敬する政治家である。学閥なく、況や財産家でもなく、半農半漁の地域に生まれた父を政治的に支えた人々の多くは、浄財を出していただいていた人も含めて、宇田さん(あるいは宇田先生)には、政治に対し、純粋な建設的信念があるといっていただいていた。この辺が革新系の人々とも戦前、戦後を通じて人間的なつきあいが出来た背景と私は思っている。

選挙に弱かった父が、最後に落選し、選挙違反に問われたとき、私が立候補するよう勧められたが、私は、保守合同や安保改正を推進した人が、このまま現役政治家を去るようでは、日本の政治史も画竜点睛を欠くと思い、父が生きている間は、再起の機会を待つべきと感じ、ついに私自身の政治的行為には着手しなかった。 父が選挙違反の責任から勲二等旭日重光章を返上した時、私は父の代わりに総理府に勲章を持参した。父の葬儀の委員長を務めていただいた故福田元総理は、勲章を頂いたことはいただいたのだとおっしゃって、弔辞に旭日重光章受賞と読まれた。

昭和20年代の落選中も保守合同の推進者であったように、順境の時も、逆境の時も、現役を去ってからも、歴代首相の官邸、私邸に出入り自由であり、私も、時には、一緒に首相のところにつれていかれた。ある夜、中曽根首相のところに伺うことになった。当時中曽根さんは「不沈空母−日本」とか、米国のレーガンは、ソ連を「悪魔の帝国」とかいっていた時代で、あるが、中曽根首相は、ウイリアムバーグのサミット会議当時から、「ロン、ヤス」の関係を段段と強固にしていた時と思う。父と某評論家(当時「新政研究会」局員)と私は、中曽根訪米直前の某夜、私邸を訪ねたのである。(1984年4月21日) 私は、日本の経済成長による各国との経済摩擦を和らげる為に当時累計700億円に達していた放送関係のODAのうち、番組の援助が零点数%であるため、英独が、日本の援助で出来た放送局に、無償で番組を提供し、日本への理解が進まないことは、援助におけるソフト軽視の欠陥であるという論文を中曽根さんに渡した。その後、父と局員が中曽根さんに話して手渡した文書は、米ソ関係の改善と世界の融和、平和の進展についてであった。中曽根訪米後、ロンは、対ソ関係を転換し、後のレーガン・ゴルバチョフの会談となった。私は今までこの話を文章にしたことはない。

(写真3 中曽根首相と父と私)

父は、総理官邸訪問後、官邸記者に何が話題であったか聞かれるとき、多くの場合、「戦前の政治家のバカ話」と答えていた。父は戦前郷党の大先輩・床次竹二郎氏の薫陶を受けたり、帝国記者クラブの幹事をしていた関係で殆どの政界領袖を知っていたからこそ、保守合同を派閥を超えて推進できたのだが、勿論、記者への答えは、真実でなかったことが多い。

私は、父が戦後、日本の復興発展のために主宰した「新政研究会」の名前だけは、少なくとも私が生きている間だけは、残したいと思っている。』

余談だが、971117日からの一週間、ちょうど北海道拓殖銀行と山一證券が崩壊した間の一週間に、イギリス政府のシンクタンクが日本の国際的役割というテーマで全世界から50名を集め朝9時から夜10時までクローズドコンファレンスを開いた。私はその六ヶ月前に東京にあるイギリス大使館を通じて「日本の経済はどこへ行くのか」という題でこの会議での発表を求められ、1118日にプレゼンテーションをした。その時、私への招待状は新政研究会代表としてであった。

また、先に中曽根首相の時お渡した放送関係の番組援助については、その後、親しかった何人かの外務省幹部や、経団連広報部、首相交代の後、竹下首相の弟でNHK出身の、亘氏(当時秘書)に論文を渡したりした結果、郵政省の中に小委員会ができたりしてやつと組織が出来あがった。私自身その政府側の調査でマニラに行っている時にマルコスへのクーデターが発生し、急遽NHK職員にもどって外信部長の要請を受けて、衛星中継の準備をした思い出がある。

しかし実現した番組提供組織は、戦前の共同通信社のような大規模の公的対外PR機関には育つていない。

私の余生は、過去の人生の経験を生かして、日本がこれから遭遇していくグローバリゼェーションもしくは、世界の総合社会形成過程で出来るだけ日本の能力が発揮出来るよう個人としても努力することである。

 

「6」――「LSEフォーラムの事、EUの事、日本の将来の事」

――グローバリゼーションを踏まえて――

 

グローバリゼーションについては、世界の知識人の中にふたつの極論がある。

 ひとつは、昔から歴史的にあったことの繰り返しということでありもうひとつは、民族国家の消滅へ向かっており、コスモポリタン世界の出現とその中間の都市国家とか、国家の制約のきかない世界企業とか類似の地域の連合体にむかうというものである。

 どちらかというと、現在のボーダーレス経済の成立、世界市場の成立、世界金融の瞬間的大量移動などから経済的な変化に関心が集まっているが、情報化社会、コンピューターとコミュニケーションの融合、その経営利用、雇用形態の変化、軍事利用、リスク管理、そのもたらすワールド・ガバナンス、統治機構ガバナンス、企業ガバナンスの質的な変化は、やはり、20世紀迄のものとは、違うといえよう。それと女性の開放、少子化、高齢化、福祉社会の変容も含めて、経済だけではない、広汎な社会変化がグローバリゼーションによって、進行している。

 しかし、我々がここで注意しなければならないのは、最終的世界国家もしくは連邦の成立までは、国家単位は重要であり、グローバリゼーションによってもたらされるマイナス面を補正していくのも国家や国家間の組織、機構の避けがたい役割であることである。

 実際、世界連邦的なものが、出来る過程で、民族国家から一気にそこへ向かうのか、地域的国家連合とか、類似の政治経済体制をとっている国家、宗教を含めて類似の社会機構を持っている国などの連合をへるのか、は興味ある歴史の展望ということになるが、恐らくは、そのミックスした形をとろう。

 また、我が国としては、この過程の中でどのような戦略をとるべきかがどこかで議論されなければならない。

 ただその進行の前に、あるいは平行して、同業種間の密接な地域的、世界的連合組織が出来ていこう。私が働いていた、また現在も会友であるNHKのような放送機関では、世界的組織は、強固なものはないが、地域的放送機関の組織は、相互の連携や世界的分配も交えながら、それぞれ、日常的な協力を深めている。

 

 私は、地域的経済協定を含む地域的国家連合や、日本のグローバリゼーションへの戦略が、世界の総合社会形成過程でどうあるべきかについて、これからも考察を深めていき、また個人としてもそのために役立つような行動を継続していこうと思っている。

 LSE国際社会経済フォーラム

その中のひとつとして、要請をうけ、無給で実施しているLSE国際社会経済フォーラムのもとである、ロンドン大学LSEは、本年(1999)のマンデルコロンビア大学教授や現ケムブリヅジア大学のマテイヤ・センも含めて関係者から7名の経済学者のノーベル賞受賞者を輩出した。ヨーロッパ第一の政治経済をはじめとする社会科学研究大学としての評価を得ている。

 またLSEは、現在のEUの委員長プロディ前イタリア首相や、現インド大統領、ケネディ元米国大統領や、故福田元首相など27名の元首、首相も学び、台湾の昔の首相もいるかと思えば、周恩来が文革末期に将来の中国のリーダーの教育に配慮して、7-8名の留学生を毎年送った所であり、現在の次官級以下の官僚に多数の出身者がいる。

基首相の上海市長時代にアドバイザーだったLSEの現在スタッフもいれば、東京首都圏構想時代の都知事のアドバイザーであった故ロブソン教授もLSEであった。最近では日本の官僚の留学生の中には、大蔵、企画庁、外務省、通産省、建設省だけでなく、文部省、郵政省、運輸省、警察庁なども数えられるようになった。また世界122国からの留学生がおり、現在では、半分以上が国外からであり、アメリカの著名なリーダーの中に実はLSEに学んだことがあるという人を発見することがある。60カ国以上にアラムナイの組織があり、このネットワークを日本の戦略の国際的展開、ボーダーレスな企業の連携、発展の上に役立つことに結び付けたいのが私の希望である。

フォーラム自体も、国連大学や、NHK、民放、国際金融情報センターとの共催、日本経済新聞社や、社会経済生産性本部、JETRO、日英協会などの、後援をえたりして、日本の今後の進路に役立つものをテーマとして過去7年間に25回開催した。たとえば、「こうしようといえる日本」、「日米欧の経済関係」、「国際通貨制度のありかた」、「中央銀行のありかた」、「EUと日本」、「イギリスのビッグバンと将来戦略」、「世界大企業の変遷」、「ソ連・東欧圏経済の将来」、「経済史学者のみた現代日本」、「アジアと日本」、「21世紀の大学」、「日本的経営の行方」、「イギリスの都市開発の成功と失敗」、「ヨーロッパの首都はどこになるか」などである。

面白いものでフォーラムの討論中話題になったことで、常識を超えたことが現実化することもある。たとえば、「こうしようといえる日本」は、細川内閣時代に行われたのだが、この時、日本側の反論者の一人に社会党の参議院議員がいて――「そういうことなら、我々は自民党と連立して現政権を交代させる」と発言したが、翌年はそのありそうもないことが起こった。

このようにフォーラムは、日本の行き方に影響するような問題を取り扱い、その面では、成功しているが、私の経済的負担は多大である。篤志家の援助を期待したいものである。

 

私は、現在LSEのオナラリーアソシエイト並びに英国の王立国際問題研究所 の正会員としてまた日本経済研究センターの特別会員、計画行政学会、日本プレスセンターの会員、日本評論家協会などの会員として、グローバリゼーションに主として関心をもってイギリスと日本を行き来しながら、日本の将来について考察を行っている。

グローバリゼーションについて、現LSE学長はノーベル賞級といわれる権威であり、私はなんとか将来、日本での講演が出来ないものかと企画している。

昨年(1998年)は、ニューヨークでクリントン、ブレア、プロディと主に学長が出席して、グローバリゼーションのシンポジウムが開催されたが、その直後、学長はブレア首相と中国に同行して、講演をおこない、さらに、LSEのオナラリーフェローである金大中韓国大統領に招かれ、韓国で講演した。そのせいか今年(1999)は、韓国からLSEへの留学生は80名にのぼっている。本年1999年)はBBCの初の世界講演ということで、ロンドン、デリー、香港、ワシントンで学長のグローバリゼーションについてのシリーズの講演が実施された。実は、学長を招聘するため、,国際交流基金の援助も承認され、その他の基金や、NHKの理解も得ていたのだが、このBBC世界講演がでてきたため、日本訪問は実現しなかった。わたしは、この世界講演に出席するため、ひさしぶりにこれらの地域を訪れた。

現在、欧州15カ国中、13カ国が民主社会主義政権であるが(アメリカでは、民主党が類似の思想的背景をなしている)、学長のグローバリゼーションや第三の道への考察はこれらの国のリーダー達からも一目おかれている。講演はラジオのためのものであったが、録音やビデオでブレア首相、ヒラリー・クリントン、プロディ現EU委員長らの質問も寄せられ、グローバリゼーションについては、引き続き、インターネットを使って議論が展開中である。

 

EU

 一方、ロンドンはEUの進展を観察する絶好のポジションであるが、1962年にマクミラン首相がイギリス議会でEC加盟について、討論しているのを傍聴して以来、過去三十年以上にわたって、日本の進路に参考になるものはないか考察をしてきた。ヨーロッパとアメリカとCommonwealthのバランスの上に国益が存在したイギリスの初期の加盟交渉については、私は、1962年に小論を書いているがここでは省く。

 EUは、EC時代、関税同盟としてスタートし、現在はマクロ経済政策の分野まで踏み込み、ユーロのスタートとともに、金融政策の統合化への道を歩んでいるが、単に経済的な利益の追求だけでないことは、コソボ介入でも明らかである。 

安全保障について、英国の決断は、保守党政権であれ、民主社会主義政権であれ迅速であることは、フォークランド紛争、対湾岸戦争、コソボ介入でも示された。

 この安全保障については、日本では、日米安保が最優先であり、そのことは正しいのだが、日本人が戦後あいまいにして21世紀まで引き続いている深層にある問題がある。この点についてはこのエッセイの最後で触れるが、この点でのコンセンサスが得られなければ、日本は国として敬意をはらわれないであろう。

 グローバリゼーションの経済的な面、ボーダーレス経済社会の進展のプロセスでの関連では、肝心なのは、逆説的であるが、国家の責任と役割である。殊に一国の経済政策のなかんずく税体系を含む財政政策と金融政策の連携、もしくは整合性であって、この点に隙があると1992年のイギリスのERM(欧州通貨調整メカニズム)からの撤退やアジアの経済危機のように、ヘッジファンドに一国の経済がゆさぶられる。

 ただヘッジファンドの中には、一国のマクロ政策をよくみていて資本の移動をしたり、ベンチャー企業として活動したり、また、国や世界的金融機関の後援を受けているとみなされるものがあり、ロシアなどのように今やスイスと同じGDPの規模となった国への投資をリスクを承知で資源をおさえていこうとするものもあり、わが国も戦略的な対応が必要かもしれない。

 1992年の97日、私は、王立国際問題研究所が「英国のEU議長国としてのリーダーシップと今後の世界」と題して、2日間の会議をエリザベス二世国際会議センターで開催したとき、出席したが、メージャー首相の熱心なEU統合への積極的な役割強化の演説にもかかわらず、10日後には、イギリスはERMEU為替調整メカニズム)脱退に追い込まれ、ソロス(LSE出身)に名をなさしめたのを見届けた。

 両大戦間のブロック経済が、第二次世界大戦の遠因であるとの反省の上に、戦後の国際機構はできてはいる。EUが最後までこれと矛盾しない形で発展できれば、グローバリゼーションのプロセスのなかで地域国家連合が建設的なものとして評価されることになろう。しかし、IMFWorld Bank、国際決済銀行、WTOなどにしてもたび重なる国際経済危機に際して、常にその診断力と処方箋が正しかったわけではなく、またリーダー国の微妙な利害関係が影を落としている。また、実物経済にくらべてはるかに大きな国際金融の動き(11兆ドルということは、100ドル紙幣でエベレストの20倍ともいわれる)の影に、短期資本の動きのなかには、ある国、ある地域のみならず、世界経済をも揺さぶるものも出てきた。私がASEM(アジアとヨーロッパの協議会議)に関連するイギリス政府のシンクタンクの会議でこの点を論じたことは先に触れた。

 

 地域国際連合のありかたや、国際経済機構間の協力についても、最終調整会議としてのサミットの重要性はますであろう。また、これらの問題点について、OECD諸国の協調などが必要となろう。日本は、このようなグローバルスタンダードを形成していく機会に、真に建設的な提案をし、実現していかなければならない。

 大学でもLSEのように「世界経済の政治学」のようなコースや「World Governance」のような研究センターを置くところも出てきたし、サミットに関する一部の大学の研究ネットワークも出来てきている。

 

日本のこと

 

1992年の秋にイギリスが、金融政策の経済政策、財政政策の相剋のなかに、いたずらにヘッジファンドに名を成さしめたとのべたが、日本もバブル崩壊の過程で600兆円の証券市場が300兆円に縮小する過程で、国際金融四本の餌食になった。1992年夏8月上旬に時の宮沢首相と平岩経団連会長の会合が予定されていたので、私は平岩会長にこの点を首相が留意されるよう連絡をした。会談後、再び連絡をとったところ、総理はよく理解しておられるということだった。

 しかしその後もいかに日本が苦しんできたかは、皆様ご体験のとおりである。橋本内閣までだけでも、68兆円の財政政策が投入された。勿論下支えとはなったのだが、バブル崩壊以前に比べれば、極端にいえば、砂漠に水が吸い込まれるような様相を呈した。

 最近、外国の識者からは、「日本が驚くほど自信を失っている。経済以外も国際的な問題、紛争については、ただ、金銭的解決を図っているだけだ」という指摘は多い。ロンドンで11月はじめ(1999年)にも、日本で外国派遣員協会の会長をしていたという計9年間日本滞在の元BBC東京支局長の日本観察講演を聞いたが、湾岸戦争の時、日本側の説明は、米国から押し付けられた憲法が原因で現地に派遣ができないのですということだったと皮肉ったり、日本の政治家にグローバル化の過程を考慮して、日本の国益を実現していくような政治家が果たしてどれだけ選出されるような制度になっているかとか、日本のメディアでもパパラッチ的な程度が高いとか、記者クラブ制度なども批判的に話をしていた。

 私が、その学識に敬意を払っているあるインド人の国際金融学者、計量経済学者で、もとLSEのアカデミックにいたっては、この夏(1999年)10回に及ぶ、グローバル・ファイナンスの講演の中で一回を日本についてあて、「かつて1980年代は、アメリカをも凌駕するとの報道さえあったが、現在では実質購買力で計れば中国のほうが上というアメリカの研究機関の発表もある。日本の国の戦後の軌跡を見ていると一言にしていえば、「Country without Purpose」であると締めくくった。

 このように日本が「風格なき国家」とみられていることには反論もあるが、21世紀以降のグローバリゼーションの進行、世界総合社会の形成過程の中で、日本が敬意を得られる国として歩む道筋の困難を示している。また、本当に国家戦略を持っているのかを揶揄したのかもしれないと思っている。

 19世紀半ば以降、日本は三つの根底的な社会システムの変化への挑戦を受けた。即ち、西洋の圧倒的なパワーに直面したとき、1945年に敗北し、民主化を進めることになったとき、そして今回のグローバリゼーションへの挑戦である。これに関して、橋本政権が掲げた六つの改革の目標は現在でも正しい。しかしバブル崩壊経済からの回復が、十分でないときにアジア経済危機に襲われてしまった。また官僚組織の痛みを伴う改革の前に政権が交代した。従来の発想をこえた行政改革、官僚組織改革が先行するべきというのが反省点である。

 日本が直面している困難は、

(1)    短期的課題であるバブル経済崩壊からの回復と経済構造改革

(2)    中期的課題である財政赤字の矯正と財政システムの再建を高齢化、少子化にともなう福祉国家のあり方も考慮に入れつつも実現していかなければならないこと、(1)にともなう社会改革も進めていく。

(3)    長期的課題であるグローバリゼーションの過程においての国家目標に対するコンセンサスを得ることである。

 私が、「日本の経済はどこへ行くのか」で強調したことの一つは、資産デフレからの脱出の糸口がみえ、金融システムの回復がなければ、次の発展への展開ができないという点であった。この意味で現政権 (小渕政権)の「経済再生計画」は正しいが、上記の短期的、中期的及び長期的課題と共に、行政改革を根底に据えた六つの改革をないがしろにしては、将来へのツケが大きくなる。

 特に、金融政策、財政政策、租税政策、経済構造などの経済政策については、国家としての戦略的調整は、中央銀行の独立性は認めても、統治組織の最終的責任としてどこかでねられていなければならない。

 イギリスでは、2年前から目標的インフレ圏の設定が前LSE経済学部教授メルヴィル・キング・イングランド銀行副総裁の起案のもとになされ、今やイギリス経済は、ヨーロッパ随一のパフォーマンスを示している。フィナンシャルタイムズの記事にも最近2回にわたって日本もそのような目標を掲げてはどうか載せたのにたいし、日銀の金融経済研究所長の反論が記事に載らなかったが、フィナンシャルタイムズのインターネット・ウェブサイトにのった。

 ここで注意しなければならないのは、どうも中央銀行は、不動産価格の変動を取り扱うのに誤算があることである。イギリス政府は、最近のパフォーマンスを物価その他の指標を含めて評価できるものとして発表しているが、イギリスにおける住居購入価格はここのところ、ロンドンやイングランド東南部では、ひと頃の2倍近くに高騰しており、一方、地方では安くなっている。

 日本でも1980年代にアメリカから内需拡大政策を迫られたときに物価指数のなかに、不動産が反映されていなかった。不動産価格は、「合成の誤謬」を招きやすい分野であり、一部の取引を全国の土地価格の総体として計算すると日本は、米国の2倍であるというようなことが、外国の戦略的情報作戦だけではないかもしれないが、メディアで喧伝され、1990年以降の短期98%の課税政策、急激な高金利政策をふくめて、日本全体のスパイラル的な急激な収縮をもたらしたことは、ご承知のとおりである。一部のヘゲモン国では、BIS規制を含め、日本における資産デフレ、金融システムの危機をみてこれで日本をおさえこんだという発言をしている人がいたが、日本は、せっかく戦後の血の滲む努力で築いた財産を急激に縮小してしまった。本当は、たとえバブルにあって膨らんだとしても、有効に生かす国家戦略が必要だったといえる。

 いずれにしても、金利政策については、不動産価格を考慮に入れる場合は、機械的な指数化でなく高度の総合的な経済政策にもとづいて、展開されるべきである。今日の日本では、不動産価格をふくめれば、物価は負の状態であるから、インフレを招きたくても、招けない状態である。1980年代の時と違って、通貨供給増大を含めて、有効な設備投資の拡大と次の戦略産業の発展に役立つ政策の導入には、大胆であるべきである。中央銀行の金融緩和はそれだけでは有効でなく、経済の拡大のために有効な銀行界の貸出増加と結びつかないでいることは、過去の数字のグラフ化で密接な相関関係が示されている。ただ、開放経済下で、国際間で完全な資本移動が達成されているところでは、もし将来へのイノベーションと設備投資に結びつかない場合は、単なる資金の海外への移動になり、長期的には、為替の下落の原因となる。今日の日本では、国債引受を含めて、有効な将来産業への投資に結びつきその結果としての競争力の強化(リストラからだけでなく)につながるなら、金融緩和政策が有効であるが、国内の有効需要に結びつかなければ、財政政策の拡大と、補完的には、外国からの長期的な直接投資の増大が必要になり、その財政政策も、単なる財政政策の大規模実施だけでは、一旦拡大した市場均衡が引き戻される可能性がある。その時国家財政が悪化していると、国力の低下につながろう(これに関連して11月に元LSE教授で、IMFWorld Bankアドバイザーもつとめたサッチャー政権の経済政策成功に貢献した経済顧問アラン・ウォルター氏がLSEで−1981年のイギリスの経済政策と日本への教訓−と題して講演があったので、筆者は質問してその趣旨に疑問を投げかけ、後で意見を交換した)

 上記の金融政策や財政政策は、資産デフレが厳しいときには、有効でない。金融システムの再生とか、企業、国民の資産デフレからの脱却のためには、非常に低い目標インフレ圏設定は、政策の選択肢として除外すべきではないであろう。但し、1929年以降のアメリカとか、1990年代の日本などのように、経済危機が極限状況の時に限定すべきだろう。

 いずれにしても、どういう経済の状態のときであるかとの正確な認識の元に、中央銀行だけでなく、国家全体の経済政策の強力な関連性と整合性(経済状況では、金融政策と財政政策の負の整合性もありうる)のもとに最終的には、内閣の責任のもとに(失敗したときには、反対党と交代するような政治制度、選挙制度や官僚の責任制度、官庁認可の法人の経営権の民間主導やシンクタンクのあり方、行政のスリム化も関係がある)実施されていかねばならない。

日本人が自信を失っていることは、長期的課題について議論さえもしないことに伺える。

しかも別の見地からは、その解決は、環境問題も含めた地球上の人々の共通利益を考慮に入れながら、21世紀にも両立できうる社会経済のビジョンを作っていかなければならないことを意味し、挑戦の質を深くしている。

現代のデモクラシーの多様な価値を認めつつも、社会の根底でコンセンサスを得たときは、日本人のエネルギーの燃焼力は強い。

先のウィルトン・パークの「日本の国際的役割」という会議では、私は、個人的には日本は知的創造力があり、技術革新的(または生産システムインノベイチヴ)で地球環境共存社会と呼びうる国家を作り上げていく必要があると述べた。言外に開放市場経済のもとで競争力のある社会になることが前提である。

以上、エッセーの形をとって、私の実際の経験を通していくつかの日本の今後の問題点に触れてきた。

21世紀の日本の行く末については、上記のような国家・社会の目標の実現を根底におきつつも、安全保障やリスク管理、資源確保、サミット、OECD諸国間の協調、アジアとの地域経済協力問題、なかんずく中国、朝鮮半島、台湾の問題、高齢化社会への移行と市場経済グローバル化にともない福祉国家はどうなるのか、経済の水準維持と婦人の生涯出生率が1.4人に低下していることを考え海外からの移民枠の設定に踏み切るべきなのか、グローバリゼーションにともなう旧産業から新産業の移行過程での総合的政策はどうあるべきなのか、雇用のセーフテイネットワークはどうなるのか、グローバリゼーションの進行について、日本が公正な世界標準ルールについて米国や欧州に提案、実現を図っていけるのか、グローバリゼーションといえども形を変えた経済戦争という面があるが、日本は情報収集の戦略が欠如していないか、つまり日本はグローバリゼーションに対する戦略はあるのか、日本の政治制度が、衡平な政権交代を含めてスムースに行われ、しかも効率性も維持出来るようなシステムに本当になっているのか、また日本はたとえばアメリカのように、グラスルート的な−つまり統治機構の組織よりも国民のほうが権力の源であるという段階に達していないのではないか、「私的セクター」と「公的セクター」のバランスは適正か、高級官僚は米国のように政権交代と共に交代すべきか、本当にシビルサーバントに官僚はなっているか、英国のように官僚からの国会議員は例外的現象となるべきではないか、規制緩和と構造調整、情報公開など真に国民側の利益を優先した市場経済への移行とともに、六つの改革を行いながら、地方自治、地方分権の強化−地方政治・行政の改革、地方財政独立化を進めるべきなのか、日本が何故敬意を払われる国にみなされないのか、など勿論問題は多い。六つの改革を進めるにあたっても、この10年間の失われた時代にいかに民間が苦しんだかを考える時、まづ、行政組織の徹底した簡素化と効率化、リストラが先にこないで消費税だけあげてつじつまをあわせるのでなく、民間の払った苦しみに匹敵するようなあらゆる努力をはらった行革をした後にはじめて租税強化を図るべきでないのか? ことに米国のようなGDP8兆ドルというような国でしかも世界の警察官といわれる国家で本年度の予算は1831億ドルと2.7%なのに、日本はバブルの後始末のため、やむを得ない面もあつたが、500兆円弱のGDPで85兆円と約17%の予算でしかもパブリツクセクターは、人によっては、40%というぐらい人もいるぐらい、世界でも特異であり、645兆円の国際発行高は、いかに黒字国、世界一の債権国とはいえ、場合によっては、急激な円安を招き、石油支払いにも苦慮する事態を招かないとも限らない。まだ、政治や行政組織の効率化は不充分でないだろうか?政治献金なども、新しく立候補する人にたいしては、現職の政治家の秘書等に支払われる国家支出分までを含む国会議員の収入額までの献金は合法として、現職の議員は、献金禁止とすることも考慮されるべきではないだろうか?このように現職とこれから政治を志す人々との条件を平等にしてはじめて政官業の癒着や、永年の政権維持による腐敗からより自由であるデモクラシーと、数あわせのための合従連衡をよりしにくくする交代可能で民意を歪めにくい政治制度が運営され得るのである。

安全保障については、日本が国連安全保障理事会のメンバーになれるかどうかが分かれ目であることは論を待たない。世界の公正な経済ルールの構築やグローバリゼーションの進行過程での基本的なルールの改善については、個別的な国際組織での活動とともに、サミットで説得力のある行動がとれるようなリーダー、即ち国家の代表者を国民が現在の政治体制の中で選んでいけるのかが大きく関係していこう。

サミットと世界の平和と安全保障についても、たとへば、今回の沖縄サミツトで「G8の国は、相互には決して戦争をしない。世界の紛争予防については、それぞれの国の権能の範囲内であらゆる連携をとりながら世界安定化のために協力行動をとる」といつたような共同宣言を作るだけでも、台湾海峡や、朝鮮半島を含めて、世界の平和の実現に向けて大きく駒を進めることになろう。

これについても、私は意見を持ってはいるが、ここでは控えておく。

 

 ただ、これらの問題の根底にあって戦後日本人が深層の議論を避けてきたことは、安全保障の前提となる自分の国は自分で守るという意識面での国民の意識の共通認識である。日本が圧倒的な西洋文明の挑戦を受けたとき、明治の先覚者は、「一身 独立してはじめて 一国 独立す」といった。これは、近代社会の根源的単位ともいうべき、個人主義の重要性を示す言葉であり、近代文明は、これなくしては発展しえない。しかし、「一身 独立してはじめて 一国 独立す」といった時、それは、同時に個人が個人だけでは存在せず、国家社会あるいは世界的総合社会の国ができたときは、その中に存在するということも示唆している。逆にいえば、天は自ら助けるものを助くという言葉があるが、もし自分が独立し、また、自分を自分で守るという認識がなければ、そのような人々の集合体である国は、国として存在しなくなっていくであろう。

 日本が戦争によってこうむった被害はあまりに大きく、(4)の「昭和36年の大航海」でのべたように、巻き込んだ国への打撃も、戦後日本が謝罪を継続して表明しなければならない理由であり、それが、日本の国際的活動の足かせとなっていることはいうまでもない。また、核爆弾の被害を受けた国として、2度と大東亜戦争のような戦争をはじめとして戦争を起こしてはいけないということも国民の共通認識となるべきであろう。日本が「平和国家」のモデルたらんということも理念として正しい。勿論外交により、戦争を避けることは一番のプライオリティである。戦後日本が維持してきた日米安保体制も、最も「ベター」な選択であったといえよう。

 しかし「平和国家」を目指す場合でも、他の国家との連携により、平和を確保するときでも、自分の国は自分で守るという意識を国民が持つことは矛盾するものではない。

 「平和国家」であっても、(1)日本人が自衛の意識があって専守防衛を目的とする「平和国家」を目指す場合と、(2)単に功利主義的、拝金主義的な理由で「平和国家」たらんとする場合、(3)無抵抗主義の「平和国家」の場合では、遠い将来「世界連邦国家」ができるとしてもそれまでのグローバリゼーションの過程において日本のこれからのあり方に大きな差をもたらしていくであろう。それはまた国際貢献をしていく場合にも、大きな差となっていくであろう。問題は、国際社会の現実が、日本に(2)とか、(3)の場合は、よほどの幸運がなければ、外国の従属国家となるか、所謂アパセティック・コスモポリタン的な国民の集まりの国になる可能性があるだけでなく、理不尽な国から攻撃を受けることも否定できない.この他にも(4)今のまま何もしないでいくということもありうるが、日和見主義になっていくと(2)と(3)と同じになる可能性があるし、戦後のいろいろな矛盾の整理や、道義あってしかも競争力のある社会への移行とそのための21世紀の国家ビジョンは、描きにくくなる。

 また(1)の場合でも、憲法改正をする場合と、現在の憲法でも自然法的な自衛権は否定されていないとして、補完的な法律制定や、解釈の調整で実効的な政策を展開していくなど、いろいろのケースがありうるが、外交を含めて、抑止力のある場合は、攻撃されにくいということになる。つまり、平和国家を目指しても、国を守る意識は必要であり、外交を含めて抑止力は必要である。これは、創造性ある科学技術の発展に日本がイニシアティブを取れるかどうかにも関係する。何故なら、基礎的な研究や、戦略的な分野でのイノベーションの多くは、直ちに採算が取れるものではなく、後発分野の産業に関連するものは、市場競争に当分耐えられないからである。創造的なテクノロジーの中には、防衛産業に結びつくものが多いことは、インターネットでも窺知できよう。イギリスのようにGDPで日本より低い国でも、たとえば巨大ジェットの開発などには国家予算をつぎ込んでおり、新技術の開発には熱心であり、基礎研究の分野では世界に大きな貢献をしてきた。

 ただ(1)の場合にあくまでも注意しなければならないのは、自国の独立と安全の保障のために防衛危機の開発を含めた多面的な努力はするが、あくまで戦争は避けるということである。近世において、外国との紛争を避け、現在のどの先進国と比べて「平和主義」に近かった日本が「黒船」のインパクトに反応し、ついに大東亜戦争にいたったことは、悲劇であった。幾多の犠牲となった英霊の死を無駄にしないためにも、戦争は避けねばならないのである。

 独立意識、防衛意識は根底にあり、自衛力の質的強化は図っていくが、「平和主義」には徹底するという、一見反対主義者からは矛盾とも取られかねない険しい道を歩むことになる。

 ただ経済安全保障を含めパワーポリティックスの厳しい状況は、きちんと国民に知られなければならない。一時期イスラエルは、米国のユダヤ系人を中心にハイテク技術の日本との結びつきに熱心であったが、中国に対しミサイル技術や防衛機器を長年売り込んでいることは、注目しなければならない。それらは、廻り廻って北朝鮮のミサイル技術に使われるかもしれないのである。中近東における資源確保と同時にイスラエルのハイテクをどう扱うかという非常に困難な課題が出てくるのである。

 核不拡散条約についても、この条約に加盟していれば、ただそれだけで日本は絶対に核の攻撃を受けないと思うことは間違いであることは正しく国民に知らされねばならない。

 現在の核保有国は、条約に加盟していない新興国は勿論のこととして、一定の状況で核を使用することは、国際公法に違反しないのである。

1)の場合は核三原則は守るとしても、核からの攻撃を含めて、国を守るための有効的な機器、システム、自衛の武器の開発は積極的に行うべきということにもなりうると述べたが、そのことは、たとえば私が21世紀の日本の国家ビジョンとして先に示した「知的創造力があり、技術革新的(または、生産システムインノベイティブ)で、地球環境共存社会と呼ばれる国家」とも同一ではないが、包摂しうる命題ということになる。

また、専守防衛以外の国際治安活動についても一定の条件と歯止めのもとに参加していくかどうかも、国際貢献をどこまで進めていくかに関連する選択の問題である。現在の法体制のもとでも、政治のリーダーシップによっては、たとえば、世界各地の災害、水害、地震などによる惨事の際は、どこの国よりも早く、自衛隊、NGOを含めて、日本が率先して、救援活動に乗り出すということは、出来得ることでありそのための輸送手段を含めたシステムを構築、整備することは、日本人の誇りを回復していく機会でもある。

1960年の安保改正以後、国民もこの問題は避けてきたし、現在の政治も少数を除いて憲法問題を含めて避けて通ろうという人が多い。沖縄の基地問題も「避けてきた事」の矛盾の象徴と言えないこともない。

しかし、この問題は、日本人が精神の独立を持ってフェアに世界的競争に参加していけるかどうかで、避けられない争点となると思われる。また、このような選択をデモクラシーのもとで選択出来るかどうかで、先にあげた10いくつかの日本の将来の問題点の解決についてもずいぶんと違った方向になるし、21世紀の日本社会のあり方も、差異が広がっていくであろう。現在は経済再生が最優先であるにしても、安全保障をはじめとして、上記に述べた日本の問題点を国民に明確に示して、国民の選択とコンセンサスを得られる政治家こそ次のリーダーたるべきであろう。この合意に早く達すればするほど、日本はグローバリゼーションの進行に対して準備と用意ができた国と言えよう。

私は、最近 世界的なネットワークを有し、しかも、唯一の常設的サミツト研究評価機関であるG7/G8 リサーチ グループのメンバーとなり、さしあたり沖縄サミットへの提言、期間中のインターネツト放送に取り組む事になった。今まで論じたことがサミットへの研究調査提言を通じてもいくらかでも前進出来るよう努力しようと思っている。

 

21世紀の日本が、よりよき展望を開けるよう努力したいものである。

 

     本稿は、筆者が1997年英国政府のシンクタンクでプレゼンテーションした「日本経済はどこへ行くのか」と合わせて読んで頂くと、ご参考になると思います。

 



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